2011年1月30日日曜日
イタリア旅行その4(1/27)フィレンツェ
クルマでずいぶんあがりミケランジェロ広場に着く。そこからフィレンツェ市街をみる。ウォー。壮大でなかなかだ。
「都市としてのフィレンツェの生みの親は、他でもないユリウス・カエサル。...誕生は紀元前59年...ローマ時代では春の盛りに祝われた「花の祝典」(ludi florales)の祭日。これが、フィレンツェ(Firenze)の古名であるフロンティア(Florentia)の由来......完璧なローマスタイルの都市として建設される。アルノ河に沿った四角形で、四つの門からの道が中央部で交叉し、街道による市外との連絡から上下水道、アルノ河の対岸と結ぶ橋、公衆浴場、中央広場であるフォールム、半円形劇場に円形競技場と、ローマ人が都市に必要と考えたインフラのすべてが整っていた」(塩野七生『ルネサンスとは何か』p71~)
サンタ・クローチェ広場である。
「現在としても機能している市庁舎は、1299年から1314年にかけて、ドゥオーモの設計でも有名な建築家アルノルフォ・ディ・カンピオの指導によって建てられた」(高橋友子『路地裏のルネサンス』p14)
「「制度」というものを、人間や組織等社会的存在の行動を規則化し規制する機能を果たすものであるとすれば「時間」もまた制度である。
ジャック・アタリの『時間の歴史』(Attali,1982)が明快に述べているように、時間は社会生活を規則化し規律ざけるものであって、各社会は独自の時間概念をもっている。中世ヨーロッパの都市には町の中心に時計台があり、市民生活を規則化し組織していた」(清水耕一『労働時間の政治経済学』の冒頭から)
「十四世紀から全ヨーロッパに<時計>が徐々に使われだす。1335年、ミラノで定時法が制定」(澤井繁男『イタリア・ルネサンス』(講談社現代新書)p28)
大聖堂、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。ブルネレスキ(1377~1446)がこのドームの建築を実現。「『花の聖母寺』(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)の円蓋をどう建造するかのヒントを建築家のブルネレスキに与えたのは、友人だった彫刻家のドナロッテとともに見てまわった、パンテオンをはじめとするローマ時代の建造物であった....パンテオンではドームの頂上部は開いてそこから外の蒼空が眺められるのに対し....耐重策の上でも耐震策の上でも、ドームの構造は変わってこざるをえない。...傾斜の度を急にすることと屋根の部分を八本の稜線で補強すること、それに加えて円蓋全体を二重構造にすることで、この難問を解決した」(塩野七生『ルネサンスとは何であったのか』p53以下)
サン・ジョバンニ洗礼堂の門扉を飾る「天国の門」 ギベルティ(1378頃~1455)が1402年に制作。
これは、コンクールがあったとのこと。最後まで残ったのが、ギベルティとブルネッレスキとのこと。
天国の門とは、ミケランジェロがそういったことからのようだ。制作は、1429年から1452年まで。主要画面をとりまく預言者と巫女の雑にまじって、満足の笑みをふかべたはげ頭の老いたギベルティの自画像が彫られている。天地創造からはじまり最初の人類の誕生、その刑罰と再生の遠大な時間と世界をこの扉のなかに。
昼食後は自由行動。まずウフィッツィ美術館へ行く。事務所という意味のウフィッツィとのこと。外観はシンプル。中は大きい。このあたりから腰に違和感を感じていて自由に歩き回れない。広大な美術館めぐるのも一苦労。ウフイィッツィ美術館からヴェッキオ橋をのぞむ。
美術館の郵便局から絵葉書を出す。その後、地下のトイレで用を足す。このトイレが遺跡そのもののむき出しである。さすがにフィレンツェ。
その後、メディチ宮あたりをめざすがよくわからない。意外に街が小さい。腰は痛いというか、なんというか。ジョットーの塔へ上るのはやめておく。ぶらぶらしていると教会の中庭にはいりこんだ。緑はなかにあるんだ。
ミレランジェロ広場
グロテスク模様
大聖堂
ヴェッキオ宮殿
ヴェッキオ橋
石 腰
ウィッツ美術館
駅
地下街
ジオリ
鳥
インターネットサービスは24時間 5ユーローとのことだったが、タイミングがあわずに利用しなかった。添乗員さんに教えてもらったが....
糸杉
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