野球の甲子園大会が行われている。最近はあまり熱心に観ることはない。甲子園大会での強烈な印象は昭和40年の夏の大会で初出場の三池工業が優勝したときのことだ。中学三年生で野球部だった。野球の公式行事の郡市大会は既に七月に終わり一回戦惨敗であった。その日は、負けたショックからか午後は身体がだるく横になったら起きられなかった。三年間の疲れがどっと出た、そんな感じだった。
当時は少年の憧れが野球だった。中学にはいり野球部にはいったが、そのときには何かしら躊躇いもあった。自分程度が野球部なんてというような感じだ。たまたま敷居を低くするような周りの誰彼も野球部へという風潮で入れた。当時、一学年220名、男性がその半分、そしてその半分の50数名が入部したように思う。それが一年生は体力づくりとかで走らされるばかりとかなどでいつの間にか10名程度、最終的には8名となった。うまい下手を問題にする以前に絞られた。そうやって三年間を野球、野球で過ごした。朝から、午後から、場合により休日なども。それでも公式戦である郡市大会一回戦を三年間一度も勝ったことはなかった。
そんな頃、一応野球部あがった夏休み甲子園大会で初出場の三池工業高校が優勝した。一回戦をテレビでみた記憶がある。投手上田の背番号が11であったこともよく覚えている。ショート池田が最初にエラーをしたがその後活躍をしたことも。その頃、今まで何かと熱を出す原因であった扁桃腺を切る手術のために入院をした。全身麻酔で行うということでの入院だ。数日いたのかな。手術のあとかベッドで寝ているときに病院中が甲子園での野球に熱狂していた。テレビ室というかテレビコーナーがありそこに人々が集まり観戦をしていた。大きな歓声があったように思う。
その頃のことを思い出させる澤宮優『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校 甲子園優勝までの軌跡』(現代書館,2004-,-10)を読んだ。先に書いた『昭和の仕事』から手繰り寄せられてこの本を知った。早速、リクエストをして昨日受け取って、そのまま読了した。昭和38年の炭塵事故のことや昭和35年の労使紛争のことも出てくる。当時のことを振り返りながら読めた。時代を共有しているからであろうか。また、p66に「昭和39年の秋の九州大会南部大会では...一回戦朝倉高校に七対〇」との記述がある。
本の目次
プロローグ
第一章 大牟田という町
第二章 熱血指導の始まり
第三章 甲子園までの序章
第四章 いざ甲子園
第五章 選手たちの証言
第六章 奇跡への序章
第七章 まさかのボーク
第八章 ベストう4進出
第九章 運命の決勝戦
第一〇章 快挙は再び起こらず
三池工と現在の高校野球-あとがきにかえて
参考資料
ここでの原野球は、先制攻撃である。チーム一番の強打者は三番に位置づけ点数を早めに取っていく。先攻、後攻は、当然先攻優先。ただ、このときに甲子園では後攻がゲンがよかったらしい。バントはあまりしない。そんなところだ。
原貢は、立命中退である。以前何かの週刊誌で読んだ。何かしら野球部の理不尽なところに不満で辞めたとかだった。当時は野球ではいれたのだろうか。この本にでてくる原貢監督は理不尽で暴力をふるう。何かしら情報が違うのかもしれない。
原貢は、その後この甲子園の優勝で東海大相模高校に招聘された。その後、東海大相模は甲子園の常連校となっている。監督しての指導力なんだろう。この本によれば高校野球は監督力が7割、投手力が2割、そしてチーム力が1割とのこと。この本を読むと恐怖政治であるが慕われているさまが描かれている。それに積極姿勢。バントはしない。一つの方向というか姿勢であろう。こんなところが東海大の松前重義氏に気に入られたようだ。原貢氏も野望があり、それを受け入れ一時代を築き、息子を野球選手として大成させたのか。
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