5月1日、上海万博がはじまった。日本では万博が五つ開かれたようだ。そのうち、日本万国博(大阪)、科学博(つくば)、花博(大阪)にいった。意外に行っている。
1970年の大阪万博は、『人類の進歩と調和』がテーマだった。今更ながら1970年という時代に適切なテーマである。その年に京都の大学へ入学したこともあり大阪万博には二度ほど行った。当時はあまり興味も関心もなかった。今思うと残念だ。ソ連館、アメリカ館が人気があった。あまりに人が多いのでアフリカの小国などの並んでいないところへ行くとか、奈良本さんがかかわっていたような松下館や日本館へいったような記憶がある。最初は大阪の友人の親戚に泊まりでかけた。二度目は、郷里から父と弟がでてきて右京区の下宿からでかけた。ただ、行ったというような感じである。サークルの新歓ハイキングが万博の向うをはって枚方パークだつたことも懐かしい思い出である。
1970年代後半、たぶん富士にいた頃に、堺屋太一『80年代の読み方』というような本を読み、歴史的な見方と大数観察が未来をみるのに有効ということに感動してから、堺屋太一のものを読むようになった。堺屋太一のものを読む尽くすと、本名の池口小太郎の著書にも取り組んだ。『日本の地域構造』(東洋経済新報社)が大阪振興策として万博というものを発想させてとのこと。日本は東京と大阪のふたつの核がある楕円構造でうまく発展してきた。ところが昭和15年に戦争遂行のための東京都一元集中策以来、東京一極になってしまい、これが日本の地域構造としてはよくないというか、なんというか。それで関西ひいては大阪の地位をあげことが健全な日本の発展に資すると。その方策としてイベントオリエンテッドポリシーというものにより万博を思いつく。このあたりのことは三田誠広の本で最近紹介されている。自分で発想しそれを実現した。夢ではじまり熱意で推進し、義務感で終了だったか。最初は万博の企画書を書くのではなく退職願を書けといわれたとか。推進中に日本で一番忙しい男といわれながら記者が尋ねていくとお茶でも飲みましょうか、と。これがなかなかである。最初、「将を射んと欲すればまず馬を射よ」というように、エライ人の運転手さんへ、それに誰にでも、それこそ掃除婦さんにも説く。これにも感心する。
池口小太郎『万国博の未来戦略』(ダイヤモンド社)をずっとあとになって読んだ。大阪万博のガイドブック的な書かれたものだ。ここにでてくる総合プロデュースにもひかれた。
と、そんなことを思い出した。
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